銀行のキャッシュカードのパスワードがわからなくなった。脳力の衰えもあるだろうが、何年も使わなかったことが最大の理由だと思う。
最寄りの銀行のATMで、二つほどそれらしきパスワードを入力したが駄目だった。最後には小さな紙片が機械から出てきた。
「このカードはご利用になれません。お手数ですが係までお問い合わせください」と、書いてあるではないか。
近くにいた行員に紙を見せると、「あー、パスワードを忘れてしまったのですねー」
なんとなく、憐みの眼差(まなざ)しのように感じたが、事実だから仕方ない。
「口座の印鑑と運転免許証をもって、窓口で新しいパスワードを登録してください。もしくは、ネットバンキングでもすぐできますよ」
(ネットバンキングは使えないでしょうが)というニュアンスを感じたのは、僻みだろうか?
キャッシュカードは無事使えるようになったが、気にかかるのは忘却の彼方に消えてしまった暗証番号の数字が何だったのか?と言う点だ。
思い当たるのは、フランスの詩人、アルチュール・ランボーの生まれた年、すなわち、1854と言う数字だ。ATMでこの1854を試さなかったのは、「まさか」と思ったからだ。だが、今になって、思い当たることもある。
この口座、会社勤めからいったん解放された時に作ったのだ。会社勤めが嫌で嫌で、三十年以上我慢した小僧が自由になった時、学生時代に憧れたフランスの詩人の生まれた年をパスワードにした可能性は十分ある。
ランボーはフランス社会に反抗して、アフリカに旅立った男だ。最後は、アフリカで病にかかり帰国し、若くして亡くなった。若き日の小僧がなぜランボーに憧れたのか、七十超えた小僧には、わかるようでもあり、わからないようでもある。
ちなみに、新しく登録したパスワードは、もちろん、1854ではない。