秋分の日を過ぎて、首都圏でも猛暑が一段落した。夏の間、ほったらかしにしていた隠居所の小さな庭は、荒れ放題。雑草が生い茂っていた。まことに、草の生命力はすさまじい。
「荒れるがままの牧場(まきば)のように」
金子光晴訳のアルチュール・ランボーの詩集にこんな言葉があったように記憶している。牧場や庭の緑が美しいのは、手入れされているからだろう。
長袖、長ズボンを着て、まずは背の高い雑草退治。抜いたり、切ったりを繰り返す。汗びっしょりになる。汗のにおいを追いかけて、蚊がブーンと近寄ってくる。
背の高い雑草をなんとか片づけると、芝刈り機の登場だ。筋トレのつもりで、手動式の芝刈り機だ。若いうちはよかったが、七十超えるときつい。芝刈り機を前後、左右に動かして、刈りこんでゆく。
ガーッ、ガーッ、汗が噴き出る。しゃがみこんで雑草抜きをした後なので、腰が痛い。小さな庭だ、あと少しだ・・・。いや、ここで休憩だ。水分補給だ。芝刈りごときで、命を失ったら浮かばれない。
冷たい水を飲みながら、突如、「お爺さんは山へ芝刈りに」という桃太郎の一節を思い出す。なんで、お爺さんは芝刈りなどしていたのか?と、調べてみれば、あれは燃料にする小枝などを拾いに出かけていたということの様だ。
桃太郎のお爺さんから何百年も経って、令和の短気高齢者は燃料の確保にもならない役立たずの芝刈りをしていて、肩身が狭い。
しかしながら、無駄なようだが、芝刈りを終わってみれば、庭も心も清々としているではないか!何より、草むしりの間の無心の状態が短気高齢者にはいい。禅の境地に通じるものかもしれません。
芝刈りで
雑念払う
秋日和 (小僧)
スポンサーリンク