アフリカ小僧、隠居日録

定年後の日常を、隠居所で気ままに書いてるブログです

アテネフランセからの旅立ち

 フランス語学校、アテネフランセの一階には掲示板があり、求人広告が貼ってあった。若き日の小僧は、時おり将来の就職口を探そうとチェックしていた。日本国内の仕事もあったが、一番記憶に残っているのは、アルジェリアでの通訳業務である。

 

御茶ノ水のアテネフランセ (ウイキペディアより)

 

 アルジェリアの求人が記憶に残っているのは、アルジェリアでの仕事の報酬額が群を抜いて高額だったのだと思う。仕事の詳細は当時はよくわからなかったが、その後の人生経験で、砂漠地帯の石油・天然ガス関連の現場での通訳だったのだと思う。昔も今も、大変な仕事である。

 

 一九七〇年代、日本の商社やプラント会社は、アルジェリアでの石油・天然ガス関連事業に邁進していた。そうした現場には、日本人の商社マン、技術者、職人などが多数働いていた。彼らを語学の面でサポートする仕事が、仏語通訳業務としてアテネの掲示板に貼り出されていたのだ。随時、複数の通訳会社が求人していた。

 

 前号で書いた中原中也のフランス語とは大違いである。フランスの詩人、ランボーの作品を原語で読みたいという中原中也のフランス語とアルジェリアのプラント現場でのフランス語は同じであって、同じでない。

 

 一九七〇年代、アテネに通っていた多くの学生は、多かれ少なかれ、中原中也のように、フランス文学やフランス映画に憧れていたのだと思う。しかしながら、フランス語の習得に目途が立ち、いざ就職となれば、道はアルジェリアのプラント現場にもつながっているのだ。

 

 一九七〇年代、アテネフランセやその他の学校でフランス語を学び、アルジェリアに向かった男たちに、小僧は会ったことがある。アルジェリアだけではない、チュニジア、モロッコ、モーリタニア、セネガル、ギニア、ニジェールなど、いわゆる仏語圏アフリカに旅立った者も多数知っている。

 

 語学学校に行くのは人生を変えに行くことだ、と感じることがある。詩を読むのも人生、食べていくために就職するのも人生、アフリカの現場に行くのも人生だ。中原中也も詩を読むためにフランス語を勉強したのだが、日記や書簡を読み返してみると、実は自分の人生を立て直すための仏語学習だったのではないか、と感じる小僧である。

 

 語学で人生が変わるのか?ウイ、と答えたい。変わった人生を知っています。

 

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