アフリカ小僧、隠居日録

定年後の日常を、隠居所で気ままに書いてるブログです

中原中也とアテネフランセ

 芸能人、学者、外交官、作家、詩人などが、フランス語の私塾、アテネフランセで学んできた。詩人、中原中也(なかはら ちゅうや)もその一人だ。

 

 汚れちまった悲しみに

 今日も小雪の降りかかる

 汚れちまった悲しみに

 今日も風さえ吹きすぎる

 

 こんな詩を書いた山口県出身の中原中也は、「山羊の歌」「在りし日の歌」という二冊の詩集を残している。

 

 

 

 詩人、中原中也は同時に、フランスの詩人、アルチュール・ランボーの詩の翻訳も行った。中原中也は、どこでフランス語を勉強したのか?大正15年11月29日、友人の小林秀雄宛ての手紙にこんな一文がある。

 

 「この週はフランセにディクテがあるそうだ。だからまあ行くのは土曜までのばそう」(角川書店、中原中也全集、第五巻、日記・書簡、から引用)

 

 フランセとはアテネフランセ、ディクテとは教師がフランス語を音読して、生徒が書き取ることだ。手紙の内容は、要すれば、「今週はアテネのディクテの準備をするので、会うのは土曜までのばそう」ということだろう。この書簡は、まさに中原中也が、アテネフランセに通学していた証だ。 

 

 小林秀雄とともに中原の友人だった作家の大岡昇平は、中原のフランス語学習の経緯を次のように語っている。

 

 「彼のフランス語は昭和六ー八年、外語専修科で完成するが(中略)大正十五年秋からアテネ・フランセの初等科(三か月教程)に通っていたらしい。(中略)教場ではフランス語しか使わない教授法であった。なかなかむずかしいので、上級の教程に進むには初等科を二度繰り返さなければならない。私が昭和三年に得た印象では、中等科を中途でやめたという程度である」(角川版、中原中也全集、第五巻、日記・書簡、解題篇から引用)

 

 大岡が書いている「教場ではフランス語しか使わない教授法」とは、前号で書いた「直接教授法」のことだろう。この教授法のおかげで、アテネで学んだフランス語はホンモノの使えるフランス語になるのだ。

 

 今でも中原中也が訳したランボー詩集は、読み継がれている。そして、中原中也のフランス語の基礎を作るのに、アテネフランセが大きな役割を果たしたと言えると思う。

 

 

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