アフリカ小僧、隠居日録

定年後の日常を、隠居所で気ままに書いてるブログです

短気高齢者は、歩くことで救われる 

 70才を過ぎると、「自分もそのうち死ぬんだ」と考えることが多くなった。周囲で先輩や友人が亡くなるということも、こうした思考や感情に影響を与えているのだと思う。

 

 こんなことを考えていても仕方ないので、なるべく考えないようにしている。そのために、歩く。以前、このブログでも書いたが、キレやすい短気高齢者は「歩くことで救われる」し、死に対する不安も「歩くことで救われる」のだ。

 

 作家、安岡章太郎も同じようなことを書いている。1920年生まれの安岡は、2013年に92才の長寿を全うした。作家が70才の時、「酒屋へ三里 豆腐屋へ二里」と言う本を出版しているが、そのなかでこう書いている。

 

 「若い頃には死は冗談事のやうなもので、なかなか実感できなかったが、いまやそれは現実として身近かなところに存在している」

 

 安岡はこのころ、消化器系の手術、入院を経て、自宅での暮らしに戻ったところだった。そんなこともあって、死について考えることも多かったのかもしれない。そんな死の影のようなものを振り払うように、作家は続けて次のように書く。

 

 「私は歩く。夏の暑いさかりは、早朝だけしか歩けなかったが、秋になってからは朝も昼も、そして気が向けば夕刻、月の出た頃にも多摩川べりを散歩する」

 

 そうだ、歩くのだ。安岡章太郎も、小僧も、いや短気高齢者の多くが、歩くことで救われるのだ。「酒屋へ三里 豆腐屋へ二里」と題された短編の多くのページは、散歩のコースの説明や途中にある豆腐屋とそこで買う豆腐のことに費やされる。

 

 豆腐は滋養があり、食べやすい。消化もいい。術後の作家には、最高のご馳走であったのだろう。小僧も豆腐は、湯豆腐、冷奴で毎日のように食べる。そして、小僧も毎日歩く。だからこそ、安岡章太郎の「酒屋へ三里 豆腐屋へ二里」に共感するのである。

 

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