小津安二郎監督、最後の作品は「秋刀魚(さんま)の味」だ。映画が公開されたのは、1962年、安保闘争の二年後である。日本が順調に経済成長を続け、人々の暮らしも次第に豊かになっていく、そんな時代の雰囲気が随所に感じられる映画だ。
映画の主題は娘(岩下志麻)の結婚であり、結婚式の後、残されたやもめの父親(笠智衆)の孤独といったところだ。いつもの小津映画と同じく、父親は企業の役員で、経済的には恵まれた家庭である。
タイトルに秋刀魚とあるが、映画の中に秋刀魚は出てこない。単に映画のストーリーが展開される季節感を示す単語をタイトルに織り込んだという程度かもしれない。俳人にはおしかりを受けるかもしれないが、季語みたいなものか。
この映画に、秋刀魚は出てこないが、鱧(はも)が出てくる場面が印象的だ。笠智衆は、卒業した旧制中学の漢文の教師(東野英治郎)を招いて、級友たちとクラス会を開く。場所は級友が経営するしゃれた和食屋の二階。そこで鱧のお吸い物が出される。すると、かつて教師で、今は場末のラーメン屋のオヤジになった東野英治郎がこう言う。
「これはなんですか?」
「先生、それは鱧ですよ」
「ハム?」
「いいえ、鱧」
「はも?魚へんに豊で、鱧か。これは結構なもので」
小僧は今、記憶に頼って書いているので、言葉の細部に違いがあるかもしれないが、概ねこんな会話だったと思う。鱧のお吸い物、お酒、ウイスキーなど、たらふく食べて、飲んだ先生が帰ると、教え子たちは「あいつ、鱧という字は知っていても、鱧食べたことなかったんだ」と言って、馬鹿にして笑うのだ。
実は小僧もこの映画を初めて見た時、鱧を食べたことがなかったので、東野英治郎と一緒に馬鹿にされたような気がした。
小津映画の主人公やその友人たちは、企業の重役や大学教授、医者などで、こういう設定を嫌う人もいるだろう。しかしながら、笠智衆、岩下志麻をはじめ、出演者全員がいい持ち味を出しているし、今や場末のラーメン屋のオヤジになった東野英治郎が実に印象的な演技を残しているので、未見の方はぜひご覧ください。
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