前号で、漂流怪人・きだみのるが、フランスはどのようにして保護領モロッコを治めているのか調査し、それを「モロッコ紀行」にまとめたという話を書いた。きだは、多くのフランスの軍人と面談し、彼らの発言を「モロッコ紀行」に記録した。
モロッコ各地に駐留するフランス軍の将校が共通して言っているのは、軍事力だけでモロッコを支配することはできないということだ。モロッコ人の暮らしの改善を進めることが、モロッコ支配には不可欠であるという考え方だ。
具体的には、フランスが、医療、農業、水問題などの改善事業を各地で進めていることが、「モロッコ紀行」で書かれている。いわば、軍事と民生のハイブリッドな取り組みである。モロッコでのこうした保護領化の基本的な戦略を整えたのは、リヨテ将軍である。リヨテ将軍とはどのような人物だったのか?
昭和17年3月1日、アンドレ・モロア著「リヨテ元帥伝」が、白水社から発行された。モロアはフランスの有名な伝記作家である。この本から、リヨテの生涯、モロッコの保護領化を進める時、彼が考えていたことがよくわかる。
リヨテは、1855年生まれの軍人。インドシナ、マダガスカル、アルジェリアそしてモロッコで戦い、植民地化、保護領化の最前線に身を置き、最後は元帥まで昇りつめた人物である。軍事力だけでは植民地化は成功しない、現地人の生活改善が不可欠との考え方は、リヨテが強調したことである。
『植民地というものは本国のために治められるものではなく、植民地自身のために治められるべきである。そして植民地の繁栄が、同時に本国の力となるのだ(中略)
「植民地統治の憲法は、自由貿易であって、憲兵ではない」』(「リヨテ元帥伝」P238)
きだみのるがモロッコを旅した1938年、リヨテ将軍はすでにモロッコを去っていたが、現場の将校たちがきだに説明する保護領化の戦略はまさにリヨテ将軍のものである。たとえば、「モロッコ紀行」の次のような箇所。
「ド・ダヴェ大尉は食事の間に土民部の仕事を話してくれた。宣伝工作の主要な施設は病院で、土着民を無料で治療している」(モロッコ紀行、P158)
モロッコ各地に配置された将校たちは武力活動とあわせ、いや平時にはそれ以上のエネルギーで、病院、職業訓練校、孤児院、灌漑施設などで現地人の生活改善に取り組んでいるのであった。まさに、リヨテ将軍の考え方である。
昭和17年(1942年)に、なぜ白水社から「リヨテ元帥伝」が翻訳出版されたのか?訳者、浅野晃は前書きで次のように書いている。
「今や大東亜戦争は始められ、いわゆる東亜共栄圏の確立は焦眉の念となった。リヨテの植民政策の跡を知ることは、いろいろの意味に於いて参考となる点が少なくないと信ずる。敢えて訳文を公にする所以である。香港陥落の報をまちつつ」
前号で、嵐山光三郎著「漂流怪人・きだみのる」から引用して、きだみのるの言葉、「モロッコは、フランスの満州だよ」を紹介した。これを小僧なりにもっとわかりやすく言えば、次のようになる。
「フランスにとってのモロッコは、日本にとっての満州だよ」
甘粕正彦、きだみのる、「リヨテ元帥伝」の訳者、浅野晃だけでなく、多くの人間が当時、フランス・モロッコと日本・満州を太陽と月のようにセットで考えていたのかもしれない。
フランス人将校の一人は次のように、モロッコや満州が機能しなくなったフランスや日本を変革する存在であると発言している。
「モロッコはフランスにとっては、満州国が日本に対して持っている地位に似ている。モロッコは何よりも先ずフランスの古びた血、これは特に官僚性の安易と平和と責任の所在の不明に現れているが、(中略)この古い血を革新するために存在しているのだ」(「モロッコ紀行」P233)
リヨテ将軍はモロッコの保護領化のレールを引いたフランスの軍人である。それは軍事と民生の両輪から成るものであった。モロッコの保護領時代は、1912年から1956年まで続いた。
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