アフリカ小僧、隠居日録

定年後の日常を、隠居所で気ままに書いてるブログです

アフリカのアルチュール・ランボー

 アルチュール・ランボーは、フランスの詩人だった。ランボーほど、「詩人だった」という過去形が似合う男はいない。二十歳前後で詩を捨て、その後はエジプト、キプロス、イエメン、ジプチ、エチオピアなどで商人として働き、三十七歳で病に倒れる。戸板にのせられ船で母国フランスのマルセイユの病院にたどり着き、右足切断の手術をしたが、永眠。享年三十七歳だった。

 

 アルチュール・ランボーは、1854年(嘉永7年、日本が下田と箱館の二港の開港の細則を米国と締結した年)に誕生、1891年(明治24年、来日中のロシア皇太子が大津で襲われ負傷した年)に永眠した。

 ランボーが生きた19世後半は、英、仏、独、伊、ベルギー、ポルトガル、などヨーロッパ列強がアフリカ、中東、アジアなどで植民地を拡大した時代であった。

 

 そんな時代の影響もあったのだろうか、少年時代から詩を書いていた男が二十歳で詩を捨て、アフリカビジネスに身を投じたのである。

 

 前号で書いたとおり、アフリカ、特にフランス語が通じる西アフリカでは、フランスの存在は圧倒的である。最近、影響力に陰りが見え始めたとは言え、19世紀後半から百五十年以上かけて蓄積してきたフランスの旧植民地や保護領への影響力は、良い面も悪い面も含め、そう簡単には崩れない。

 

 詩とフランスでの暮らしに見切りをつけ、ランボーが向かった先はフランス語圏の西アフリカではなく、アフリカ大陸の東側、エチオピア、ジプチ、イエメン方面であった。このあたりでもフランスは活動していたし、現にフランスの海外領土となったジプチは、フランスから独立した今でもフランス語が通じる国である。

 

 ランボーが最初に勤めたのは、現在のイエメンの港町、アデンにあったバルディ商会。皮革、コーヒーなどを扱う貿易商の元で、ランボーはイエメン、海を渡ったジプチ、エチオピアを股にかけ、ビジネスと旅を続けた。アデンだけでなく、エチオピアのハラールという土地にバルディ商会が支店を出した時には、その責任者としても働いた。

 

 アフリカには今もたくさんのフランスからの移住者の末裔が生きている。もちろん最近、アフリカにやってきた人もたくさんいる。レストラン、洗濯屋、美容院、肉屋、床屋、政府、銀行、ホテル、不動産屋、建築会社、商社、自動車販売店、病院、クリニックなどで、小僧もたくさんのフランス人と会ってきた。

 

 詩人であったことで、アルチュール・ランボーの場合は「なぜアフリカに渡ったのか?」と特別視(少なくとも小僧はしてきました)されるが、19世紀後半におけるフランスのアフリカ進出の大きな流れのなかでは、海を渡った無数の男たちの一人に過ぎないのかもしれません。

 

 

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